クエッタ~クイ・タフタン(パキスタン編9)


大きな地図で見る 

f:id:matatabido:20070504004520j:image


 2週間前、パキスタン南部で、嫌な噂を耳にしていた。


 5月に行われたパキスタンの核実験(▼注12)の影響で、パキスタン・イラン国境が閉まっている、また開いていたとしても、バルチスタン砂漠を越える際に、被爆するのではないかと言うのだ。

 事実、実験直後は、国境が閉まり、国境が開いてからも、多くの旅行者は被爆を怖れてイラン入国を諦め、トルコのイスタンブールまで飛行機で飛んだ。陸路横断にこだわる者は、トルコから逆にイランに入り、イラン・パキスタン国境地帯まで戻り、横断をやり直したと言う。

 しかし、実験からもう4ヶ月も経っているのだ。それでもまだ問題があると言うのか。情報は混乱しているが、イランからパキスタンへ抜けて来る旅行者もおり、国境が開いているのは確かなようだ。とりあえず近くまで行き、情報を集めよう。そう思い、クエッタまでやって来た。


 ここクエッタから、国境の町クイ・タフタンまで、夜行バスで15時間。地図で確認すると、確かにバスはもろに核実験地帯を通過するようだ。現地の人たちは、「地下核実験だから問題ない。」とは言うが、不安がよぎる。

 しかし多くの旅行者たちが、そうであるように、もうここまで来たら、行くしかない。国境は確かに開いているのだ。


 2日後、ミネラル・ウォーターをたっぷりと買い込み、夜行バスに乗った。午後5時に出発した当初は満員で暑く感じていた車内であったが、やがて日が暮れると、快適どころか、むしろ寒いぐらいであった。アジア屈指の難所と言われた灼熱のバルチスタン砂漠越えだけに、拍子抜けしてしまう。どうやら灼熱の難所とは、日中の移動のことであったようだ。


 途中の小さな町で、客を次々と拾い、さらに超満員になったバスは、次第に街を離れ、何もない砂漠地帯へ入った。車内では、足の踏み場もない程、狭い通路も人で溢れ、席の無い者は折り重なるように、床に寝転び始めた。それでも、隣の席の男は、床に唾を吐き続けている。なぜみんな、自分が寝ている真横の床に唾を吐かれて、怒らないのだろうか。それを気にしながらも、いつしか眠りについた。

 

 それから何時間、走ったのか。まだ暗いが、隣の男が突付くため、目が覚めた。

 「何ですか?」

 「この近くが核実験した場所だ。」

 ここなのか。よく見ると、民家らしき物も見えるではないか。

 「早く、通り過ぎてくれ!」 念じ続けた。

 幸いにも、バスはあっと言う間に、その一帯を通り過ぎたからよいが、後で聞いた話だと、その一帯でバスが故障し、一夜を明かした旅行者もいたと言う。


 国境に着くのは、朝8時ぐらいだろう。それまでまだかなりあるが、もう眠れそうにない。僕は、夜行列車やバスなどで眠れずに過ごす時はいつも、大好きな、じゃがたらの曲を口ずさんだ。今までも何度口ずさんだろうか。そしてこれから何度口ずさめば、ロカ岬まで辿り着けるのだろうか。

 再びウトウトし始めた頃、ようやく外が明るくなり始め、バスは休憩のため、砂漠の真ん中に止まった。

 そこには、何事もなかったかのように静まり返ったバルチスタン砂漠が、どこまでも広がっていた。それに妙な不気味さを感じずには居られなかった。


 陸路の横断にこだわるが故に、強行突破してしまったが、本当にこれで良かったのだろうか。今は大丈夫でも、10年後にガンが発病するなんて、考えたくもない。



▼注12「インド・パキスタン核実験」 参考文献「?」

 1998年5月28、30日、パキスタンは、アフガニスタンとの国境に近いバルチスタン州のチャガイ山地にある核実験場で、核実験を強行した。これは、カシミール地方の領有権などで対立関係にあるインドが、5月11、13日に地下核実験を強行し、事実上の核保有国宣言を行ったことへ対抗した行動である。パキスタンが核実験に踏み出すのは、これが初めてで、核開発能力を誇示し、インドをけん制するのが狙いだ。

 インドの核実験後、パキスタン国内では、対抗核実験を求める強い世論が起きたが、シャリフ首相は国際社会のインド制裁や、実験を自制した場合のアメリカなどからの軍事、経済支援効果を充分得ることは不可能であると見極めていた。

 そして核実験が行われた訳だが、この両国の核実験は、核兵器既開発国、既保有5カ国の「核保有はそのままに現状固定し、その他の諸国の核開発は厳格に取り締まる。」という体制の矛盾をついたものとも言える。