クイ・タフタン~ザヘダン(イラン編1)
(イランの子供が書いてくれた、ホメイニ師の絵)
早朝に到着した難民キャンプのようなクイ・タフタンで、パキスタン側の出国手続きを簡単に済ませ、イラン側の国境ゲートが開くのを待っていると、下痢なのか、急に便意を催して来た。
慌てて、トイレを探すと、国境事務所の裏にあった。ボロボロの掘建て小屋のような公衆トイレ。
ところが、入り口に人が立っていて、チップがいると言う。しかし、もうすぐパキスタンを出国するために、パキスタン・ルピーを使い切っていた僕は、払うことが出来ない。どうしようか。もう我慢は出来ない。仕方なく、そのトイレの裏の茂みにしゃがみ込んでするしかなかった。
「ホメイニ師、ごめんなさい。」
そう思いながら、10時になり、ようやく開いたイラン側の国境事務所の扉をくぐると、何とそこには、ホメイニ師の肖像画が。
「お前!国境で野グソしただろ!」と睨むような鋭い目付きのホメイニ師に、思わず目を反らしてしまった。(▼注13)
国境を越える外国人は、僕以外にチェコ人が2人。「日本人である。」というだけの理由で、僕はノー・チェックだったが、チェコ人はバックパックの中まで細かくチェックされている。
イランに入国すると、しばらく国境の鉄条網沿いに1km程歩き、最初の大きな町ザヘダンに向かうミニ・バスに乗り込んだ。その中でも、チェコ人だけ、検問で降ろされ、再び細かくチェックされる始末。
「何で、お前はノー・チェックなんだよ。」
そんなこと言われても知らない。日本人は悪いことをしないとでも思われているのだろうか。
ほとんどの旅行者はイランを足早に通り抜けてしまう。それには、大きな理由がある。イランのヴィザが問題なのだ。通常、パキスタン、インド、トルコなどの近隣諸国で、ヴィザを申請した場合、取得できるのは、1週間のみ有効のトランジット・ヴィザである。
僕はそれを知っていたため、日本で1ヶ月有効のツーリスト・ヴィザを取得していた。当然、トランジット・ヴィザしか持たない旅行者は、1週間でイランを通り抜けるのは難しいため、そのヴィザを大都市のヴィザ・オフィスや警察で延長しながら、旅するのだが、その延長がまた大変らしいのだ。
ヴィザを何日延長してもらえるかは、場所や担当係員によって全く違うらしい。同じ係員でも機嫌によるのか、一緒に申請に行った旅行者でも、ある者は5日、ある者は7日、また運の良い者は何週間も、運の悪い者は延長してもらえないなど、実にいい加減なのだ。僕なら、キレてしまいそうである。
ザヘダンに着くと、さっそくバム行きのNO.8のバス会社へ向かった。(バス会社すべてに番号が付いている。)どうしても、今日中にバムまで行きたいのだ。
なぜなら、ここザヘダンはジャンキー(麻薬中毒者)が多く、治安が悪いと言う。あくまでも噂ではあるが、長居は無用である。
数字がアルファベットではなく、ペルシャ数字で記されているために読めず、苦労してようやくNO.8のバス・オフィスに行くと、そこにはチョビ髭で小太りのふてぶてしいオヤジが1人座っていた。
「すみません。」
「・・・・・・・・・・・」
「あの、すみません。」
「・・・・・・・・・・・」
おかしい。ここではないのかと思い、外にいた人に聞いてみると、やはりここがNO.8のバス・オフィスらしい。
「すみません。」
「・・・・・・・・・・(無視)」
「(大きな声で)バム行きのチケット!」
「・・・・・・・・・・」 目を合わさずに、「ない。」と手を横に振るオヤジ。
「(ムカついて)おい!」
「・・・・・・・・・・(無視)」
今日のチケットが完売なら、明日でもいい。次のチケットは、いつ発売なのだ。それを聞くことすら、出来ないではないか。
「てめえ、こっちを見ろ!チケット!!」
「・・・・・・・・・・(無視)」
頭に来て、机を叩いて外に出た。
現在イランは夏休みで、現地の人でも長距離バスのチケットを取るのが、かなり難しいらしいのだ。困った。数日待つか。しかし、いつまで待てば良いのかも分からない。
バム行きは、ここしかないと言うが、とりあえず他のバス会社にも聞いてみよう。そう思い、他のバス会社へ行くと、朝一緒に国境を越えたチェコ人がいた。彼らは、トランジット・ヴィザしか持っていないため、一気にテヘランまで行くらしい。バム行きのチケットが取れないのなら、一緒にテヘランまで行かないかと誘われたが、そういう訳にはいかない。
しかし、そうだ、テヘラン行きに乗って、途中で降りればいいのではないか。さっそく、他のバス・オフィスに交渉してみると、テヘラン行きはバムを通らないが、イスファハン行きならバムを通り、バムまでの料金で乗せてくれると言う。良かった。これでザヘダンに泊まらなくて済んだ。
ようやく発車するバスの中で、ホッとしながら、窓の外を見ると、先程のNO.8のムカつく小太りオヤジが歩いているではないか。おそらく、オヤジのものであろう韓国製のヒュンダイ(現代)のクルマに乗り込もうとしていた。よく見ると、そのクルマ、後ろのライトがメチャクチャに壊れている。
きっと、オヤジにムカついたやつが腹いせに割ったに違いない・・・そう思うことにした。
ざまあみろ!
1941年より続いていたバフラビー国王独裁により、1974年の石油危機などを背景に、アメリカと結びつきを強めながら、イランは急速に近代化を進めていた。
だが、それによって、逆にインフレ、経済格差、さらに高官の腐敗などが起こったため、王や政府、さらにアメリカに対して、徐々に不満が募り、1979年、ホメイニ師を最高指導者として、イスラム革命が勃発、現在のイラン・イスラム共和国が成立した。
だが、度重なるイラクとの戦争などに疲れ切ったイラン国民は、1989年ホメイニ師の死を境に、イスラム原理主義支配体制に不満を持ち始め、民主化と開放を求める様々な勢力が台頭して来た。
そして1997年には、革新派のシンボルであるハタミ師が大統領になるに至ったのだ。