エレヴァン(旧ソ連編2)


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 結局、バスは遅れに遅れ、首都エレヴァンに着いた時は、午前3時を回っていた。ひどい疲れと、夜になり再びやって来た寒さのため、とにかく、どこでもいいから早く温かいところで眠りたい。


 だが、はたしてこんな深夜にホテルが空いているだろうか。イランで得た口コミ情報のみを頼りに、丘の上にある安宿ナイリ・ホテルへ行ってみた。しかし、当然のように、ホテルは閉まっていた。

 僕たちは、必死でドアを叩き続けるしかなかった。まさか、この寒空の下、冬服もろくに持っていない僕たちが野宿する訳には行かない。しつこい程、叩き続けたノックの音が聞こえたのか、面倒臭そうに、ホテルの人が出て来た。しかし空いている部屋はないと言う。安宿とは言っても、かなり大きなホテルである。本当に満員になるのだろうか。

 それにしても、このナイリ・ホテル、午前3時を過ぎているというのに、窓を開け、大きな音でラジカセを鳴らし、大声で騒いでいる若い連中がたくさんいる。どうも宿泊客とは思えない。彼らは一体、何者なのだろうか。


 疲れきって、しゃがみ込む僕たちに、その時、向かいにある大きな館から、大きな犬を連れた使用人のような老人が出て来て、泊まらないかと言う。

今までアジアばかりを旅して来た僕たちは、タダで泊めてくれるのかと勘違いをしてしまったが、東欧などでよくある民家を宿として貸し出しているらしいのだ。値段を聞くと、少し高いが、もはや他へ行く気も、野宿する気もなくなっていた僕たちは、シェアして、そこに泊まることにした。

 何故か僕だけ嫌われているのか、大きな犬に吠えられ続けながら、その大きな館に入る。キレイではあるが、何となく妖しい、その洋館。

 この館の主なのか、ガウンを羽織った中年の女性が眠そうに、憮然とした顔で中から出て来て、部屋へ案内する。暗く、長い廊下には、たくさんの古い肖像画が飾られ、見つめられているようで薄気味悪い。今夜は悪夢にうなされそうだ。


 アルメニアの隣国アゼルバイジャン共和国の中に、飛び地として存在するアルメニア系住民が住むナゴルノ・カラバフという地域がある。(▼注18)

 後で分かったのだが、あのナイリ・ホテルで深夜3時だというのに、騒いでいたのは、そのナゴルノ・カラバフからの難民であった。

 アルメニアでは、その難民たちに、ホテルなどを住居として開放している。そのため、旅行者など、ほとんど来ないにも関わらず、満員であったのだ。おそらく、実際にホテルとして、機能しているのは、数部屋しかないのではないだろうか。

 そのナゴルノ・カラバフへ行ってみたいと思ったが、残念ながら、アルメニアへはトランジット入国であるため、ヴィザは延長出来ず、断念せざるを得なかった。未確認情報ではあるが、エレヴァンでヴィザが取れ、ナゴルノ・カラバフの首都ステパナケルトへのバスも出ているらしいのだが。

 

 こう言った話を聞くたびに、世界中の至るところで様々な混乱が起きているにもかかわらず、日本にいると何も知らないということを痛感する。

 この翌年の1999年、アルメニア首相ら8人が、ナゴルノ・カラバフ戦争による経済苦境などの不満から、武装グループによって、議会中に殺害されるという事件が起きた。(この事件は、テレビでもアルメニア国中に、ショッキングに放映されたらしい。)犯人は、ナゴルノ・カラバフ戦争を義勇軍として戦った愛国主義グループたちであった。


 まるで悪夢でも見ているかのようであるが、すべて現実の出来事なのだ。

深夜まで騒ぎ続ける難民たちを見ていて、月並みではあるが、帰れる国があることを、幸せに思わなければ、そう思わずにはいられなかった。


 ナゴルノ・カラバフ行きを諦めた僕とY君は、Kさんと別れ、エレヴァンから、夜行列車でグルジアの首都トビリシまで一気に行くことにした。


 エレヴァンを出発して、しばらくボーっとしていると、いきなり女性の車掌が僕たちの所へやって来て、窓の外を見るように言う。慌てて、窓の外を眺めると、そこには、日本の富士山にそっくりの大きな山が大アップで現れた。かの有名なアララット山であった。(▼注19)


 その2つの山(左から小アララット山、大アララット山。当然、トルコ側から見れば、その逆。)を指差して、中年の女性車掌は、ロシア語で延々と説明してくれた。何と言っているのかは、全く分からなかったが、車掌とともに、そのアルメニア民族の象徴であるアララット山を、見えなくなるまで、ずっと見続けていた。



▼注18「ナゴルノ・カラバフ」 (参考文献?)

 ソ連時代は、アゼルバイジャン内の自治州という地位にあったが、自治州住民の約80%がアルメニア人にも関わらず、人口の少ないアゼルバイジャン人が政治指導権を握ったり、イスラム教徒であるアゼルバイジャン人、キリスト教徒であるアルメニア人というように民族的にも対立し続け、ソ連崩壊前の1988年、ついにアルメニアアゼルバイジャン全面戦争に発展した。

 戦争は、アルメニア側が自治州の領域に加えて、隣接するアゼルバイジャン領をも制圧する形で、1994年停戦して現在に至り、その戦争の間に自治州は、「ナゴルノ・カラバフ共和国」と名乗り、1992年独立を宣言したが、承認しているのは、アルメニアのみである。

 その戦争により、3万の死者、100万の難民が出たと言われ、さらにアルメニア国内での難民も含め、故郷を追われた者たちは、ナゴルノ・カラバフからアルメニアへ、アルメニアからアゼルバイジャンへ、あるいはアゼルバイジャンからアルメニアへと避難を強いられた。


▼注19「アララット山」 (参考文献?)

 アルメニアとトルコの国境地帯(山自体はトルコ領)にそびえ立つアララット山は、旧約聖書で、ノアの方舟が漂着した場所として、あまりにも有名である。一般的に、それは伝説上の話とされているが、19世紀以降、実際にノアの方舟を探すための遠征や調査が、何度も行われているというから、驚きである。

 さらには、「ノアの方舟の残骸を発見した。」「方舟と思われる、加工した木片を回収した。」「方舟らしき影を人工衛星から、撮影した。」などの怪情報もあるらしいが。

 第1次世界大戦中、当時オスマン・トルコ領であったこの国で、キリスト教徒であるアルメニア人が迫害を受け、一説では150万人が虐殺されたと言われている。

 トルコ側は、この事実を否定しているため、アルメニア側は未だにその認知を求めている。また、アルメニア政府は、現在のトルコとの国境線についても不承認としており、アララット山を含む国境地帯は、常に緊迫状態にあるのだ。

 アルメニア正教徒にとって、アララット山は、自らの子孫としているノアが漂着した場所であり、宗教的にも、民族的にも、象徴的な山である。