トビリシ/グルジア(旧ソ連編3)


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 翌朝、シトシトと雨が降り続ける暗い空の下、列車は廃墟のような、グルジアの首都トビリシ駅へ到着した。


 旧ソ連や東欧など旧共産圏は、特有の無機質な暗さを漂わせているが、ここトビリシは、今回旅した中でも、最もそれを強く感じた街であった。僕たちは、駅からすぐ近いコルへティ・ホテルに泊まることにした。

 駅同様、いやそれ以上に廃墟のようなこのホテルは、やはりアルメニアと同じく、難民に占拠されており(1990年頃に起きた、イスラム系住民が多く住むアブハジア自治共和国の独立をめぐる紛争による難民らしい)、ホテルとして機能しているのは、わずか2~3部屋のみであった。

 左隣も右隣も、宿泊客ではなく、難民たちが住んでおり(彼らは部屋のドアに表札を出したりしている)、その生活感は隣の僕たちの部屋まで伝わってくる。彼らは、ホテルの前に露店などを出し、生計を立てている者が多いようだ。結局1週間程ここに滞在したが、僕たちも、まるでボロ・アパートを借りて住んでいるような気分になってしまった。


 トビリシという地名は、温泉地という意味らしく、その名の通り、町の至るところにハマム(温泉)が点在している。廃墟宿のシャワーは当然のように、壊れていて使えない。さらに寒さのせいで、体が冷え切っていた僕たちは、ほぼ毎日夕方になると、地下鉄に乗って、ハマムへ行くのが日課となっていた。

 ハマムは、イランとは違い、イスラム圏ではないためか、きちんと湯船もあり、久々に日本を思い出させてくれたが、日本人にとっては、そのお湯があまりにもぬる過ぎるというのが少し残念である。

 ハマムへ向かう石畳の道を歩いていると、かつてマルコ・ポーロが「絵に描いたように美しい街」と語った、古き良きトビリシを垣間見ることが出来る。しかし、それ以外は特に、これと言った面白いことを見付けられないまま、トビリシでの日々は過ぎて行った。


 グルジアの食事は、最もポピュラーな食べ物であるカチャプリと言うチーズ・パンばかりで、美味しいものも見付けられない。おまけに物価も以外に高い。

 グルジアは最悪だな、そう思いながら、Y君と、夜、地下鉄駅の周辺をウロウロしていると、何とテヘランで一緒にスキヤキを食べに行ったT君と偶然会った。彼は、イランからトルコへ直接入ったのだが、急に気が変わったらしく、トルコのトラブゾンからグルジアへやって来たらしい。

 

 翌日、そのT君に紹介してもらったトビリシ在住の日本人、Wさんと食事をすることになった。グルジアの料理は、まずいと思っている僕たちに、安くて美味しい料理を教えてくれると言う。

 Wさんは40歳ぐらいの男性で、トビリシの大学で日本語を教えている。当然グルジア語はペラペラで、日本のグルジア語の第一人者的な存在であるらしい。

 停電で真っ暗のトビリシ駅の地下を、まるで廃墟の中を探検するかのごとく、懐中電灯を照らしながら、徘徊し、停電が直った頃、ようやくWさんも来たことがないと言う安食堂が開いているのを見付けた。


 しかし、入ろうとすると、「今日はもう終わりだ!」と追い出そうとする。仕方なく、帰ろうとした、その時、その店で酒を飲んでいた若いグルジア人2人が突然怒り出した。

 「この人たちは、わざわざ遠い国から来てくれたのに、なぜ追い出すんだ!酒を出してやれよ!」 Wさんの通訳によると、どうやら店の人に対して怒っているらしい。

 店の人は、早く店を閉めたかったようだが、諦めて僕たちを中に入れ、Wさんが美味いと絶賛するグルジア名産のワインと、ビーフ・シチューのような料理を出してきた。

 僕たちは、その若いグルジア人たちのホスピタリティに嬉しくなり、彼らに一緒に飲もうと誘った。ところが、彼らは飲むわ、飲むわ。連られて飲んでいた僕たちも、かなりに調子に乗り、最後は一気飲み大会となってしまった。

 グルジアの祭りの時などによくやるらしく、飲む前に立ち上がって、みんなの友情を誓うような演説をして、一気飲みするらしい。

 僕は、グルジア人のホスピタリティに感動した旨を喋り、Wさんに通訳してもらい、一気飲みした。それからひとりづつ順番に、何週も何週も一気飲みが続いた。 一気飲み用の器は、底が尖っていて、置くことが出来ない。つがれたら、飲むしかないように出来ているのだ。


 その後、店を出て、フラメンコ・ダンサーの見習いであると言う、そのグルジア人2人と、真っ暗な駅前のヴァグズリ広場で一緒に踊ったのは少し覚えているが、ところどころ記憶が飛んでおり、気が付くと朝になり、難民の占拠する廃墟ホテルのベッドで眠っていた。

 僕は、二日酔いでガンガンする頭を抱えながら、グルジアも悪くないじゃないか、そう思い、1週間程度、滞在した程度で、この国を深く知ろうともせずに、最悪などと思ってしまったことを反省した。


 もっと個々のレベルで深く付き合ってみなければ、分からないことが、たくさんあるのだ。旅で無責任に通過する程度で、その国が分かるはずがないのかもしれない。