トラブゾン(トルコ編1)
トビリシからバトゥーミまで、夜行列車で行き、特に揉めることもなく、サルプで国境を越え、トルコへ入国した。
黒海沿いにリゼなどを経由して、小刻みにバスなどを乗り継いで、トラブゾンへやって来た。ここは、13世紀十字軍のコンスタンティノーブル占領時、ビサンチン帝国から落ち延びた一族が復興の拠点としたトレビゾンド帝国の中心地として有名な場所である。
この港町トラブゾンからは、ロシアのソチへ、黒海を渡るフェリーも出ており、街にはロシア系の人々も多く見かける。
ここには、ロシア・バザールという面白そうなマーケットがある。そろそろヨーロッパへ向けて、冬服を用意しなければならない僕は、そこで掘り出し物を探そうと意気込んで出掛けたのだが、残念ながら期待したようなところではなかった。
プレハブで仕切られた仮設テントのようなそのバザールは、入場料を取る割に狭く、何て事のない日用品が並ぶだけなのだ。Y君は熱心に見入っていたようだが、せっかちな僕は、すぐに飽きて、見終わってしまった。
トルコに入国して、今までの貧しい国々とのギャップからか、温かい陽気も相まってか、何もかもが明るくなった気がする。街には、お洒落なブティックが並び、着飾った女性たちが歩いている。インターネットカフェ(1998年当時、ネットカフェはまだ大都市にしかなかった。)もある。多くの種類のお菓子やジュース、さらに酒もある。
トルコは、一応イスラムだが、NATO加盟国であり、イスラム色は極めて薄く、何もかもがヨーロッパナイズされている。その分、物価も高いが、まだイスタンブールや、さらにヨーロッパに比べれば安い。そのためアジアから来た者には高く、ヨーロッパから来た者には安く感じられる。
トルコで最も嬉しかったのは、ロカンタと呼ばれる安食堂の存在である。作り置きのトルコ料理が店頭に並び、それを選んで皿に盛ってもらうというシステムのその安食堂で、今までストイックに旅し続けて来た気持ちが、一気に緩むかのように、腹いっぱいに食べまくった。
この程度のことで、感激してしまうなんて、笑われてしまいそうだが、実に多くの旅行者がイスラム圏を抜けてきて、久し振りの美味い食事に感激しているのは事実である。
トルコに入って、ひとつショックなこともあった。今までずっと旅して来て、数え切れない程の両替をして来たが、米ドルから現地通貨に換えるばかりで、日本円については気にしていなかったため、全く気付かなかった。
何と、日本円が、1ドル=110円台まで、回復しているではないか。僕が日本を出発する時、1ドル=140円台であった。そのレートで、30万円もドルに両替していたのだ。なぜこんな短期間に、こうまで変わるのか。頭の中で計算をしながら、すっかり動揺していた。自分の見込みが甘いせいだとは言え、500ドル以上の損害である。信じられない。
ここトラブゾンで、イランのバム以来、ほぼ1ヶ月も行動を共にしていたY君と別れることになる。僕は奇石で有名なカッパドキアへ、Y君はトルコ東部のアニ遺跡へ行くのだ。(トルコ東部は、クルディスタンという別名を持つように、クルド人(▼注20)が多く住む地域である。)
僕とY君は、別れる前日に、14世紀、キリスト教が弾圧されていた時代に、隠れ家として使われたというスメラ修道院へ行った。
その後、夕方、街へ戻ると、イラン・アルメニア国境越えで一緒だったKさんと再会した。彼もアルメニアにしばらく滞在した後、グルジアへトランジット入国し、トルコへやって来たのだ。(彼は、僕たちと逆で、アルメニア・ヴィザは持っていたが、グルジア・ヴィザは持っていなかった。)
ここまで旅してきて、僕の服装なども、かなり変化してきた。中国で買った軍用帽子、パキスタンで買ったサンダル、イランで買った軍用ズボン、グルジアで買ったTシャツ。すっかり国際色豊かになった言えば、聞こえはよいが、何となく薄汚れた雰囲気は否めない。敢えて汚くしているつもりは全くないのだが。
その後、ロカンタから、宿へ戻ると、入り口のところで、おそらく売春婦であろう厚化粧の白系ロシア人女性2人が、汚らしい身なりの僕たちを待ちぶせするかのように立っていた。かなりの年齢のようだが・・・。思わず、「化け物だ・・・」と言ってしまいそうだ。
その女性たちと目を合わせないように、恐る恐る宿に戻って行った。
▼注20「クルド人」 (参考文献?)
クルド人は、トルコ、イラク、イラン、シリア、そしてカフカスにまたがって生活している半遊牧民で、その大半はイスラム教スンニー派である。生活を分断される形で、強引に国境線が引かれているため、国を持たない民族としては世界最大であるにも関わらず、それぞれの国では、少数派として虐げられていることが多く、各国で分離・独立運動を展開している。
中でも、トルコにおける運動は特に盛んで、共産主義の実現とクルド人の多く住むトルコ東南部の分離独立を掲げるクルディスタン労働党(PKK)は、1984年以来、激しい武装闘争を展開して来た。
トルコに滞在していた1998年には、オジャラン党首が逮捕され、その後1999年には、裁判で死刑判決が出された。そのためこの時期トルコでは、くれぐれも人前で「クルド」という言葉を発さないように、トルコ人たちに釘を差されていた。
クルド人にとってはもちろんのこと、トルコ人にとっても、クルド人ゲリラに肉親などを殺された者も多くおり、いずれにしても、クルド人問題に対して、神経質になっていたのだ。