ベオグラード/ユーゴスラビア(東欧編2)


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 プロブディフを後にした僕は、ローカル列車でソフィアまで行き、そこから再びバルカン・エクスプレスに乗り換え、ユーゴスラビアの首都ベオグラードに向かっていた。


 この時、既にコソボ自治区において、セルビア人とアルバニア人が民族紛争状態にあった。ユーゴスラビアへの入国自体が危ぶまれていたが、結局はっきりとした状況がつかめぬまま、ここまで来てしまったのだ。

 ユーゴスラビアは、日本語のガイドブックなどは皆無であり、イスタンブールで貰った「Lonely Planet 東欧編」のコピーに、かなり古い情報が載っていた程度。

 イスタンブールのコンヤ・ペンションなどでも、情報を収集したが、結局、「今のところは、コソボ自治区以外は大丈夫なようだが、かなり緊迫しており、いつ状況が変わるか、分からない」ということしか、分からなかった。(▼注25)


 列車は、数ヶ月後には戦火にまみれるストイコビッチの出身地ニシュを経由して、コソボ自治区を避けるようにモラヴァ川に沿って北上して行った。

 緊迫しているという実感がどうも湧かずに、その渓谷の見事な眺めを見ながら、呑気にも居眠りを繰り返した。半年後には、ギリシャテッサロニキからマケドニアを経由して、ベオグラードへ向かう国際列車が、ちょうどこの辺りで、NATO軍に誤爆されるというのに。


 列車は少し遅れ、夜9時過ぎにベオグラード駅に到着した。雨が降りしきり、シーンと静まり返った駅前は、何とも不気味で、考え過ぎだとは思うが、身が引き締まるような気がした。

 まず両替をしようとして驚いた。LONELY PLANETの古い情報によると、1ドル≒5ディナールとあるが、両替所では何と、1ドル≒10ディナールとなっているではないか。ということは、予定していたよりも、倍の金額を使えるということだ。これは嬉しい。

 両替所は、既に閉まっていたが、駅の外に止まっていたタクシーの運転手に両替を頼むと、さらによいレートで、両替してくれた。日本を出る時のドルへの両替で大損していることも忘れて、すっかり気を良くしてしまった。


 ブルガリアユーゴスラビアでは、日本人と全く会わなかった。さらに寂しさを増幅させるかのような東欧特有の退廃的な雰囲気、そして雨。日本に帰ってからのことを少し考えた。

 僕が、日本でしていた仕事は、書店員である。大学を卒業して就職し、6年間勤めていた。それを辞めて、わずかな貯金で旅をしている。旅は楽しいが、いつかは、必ず終わる。

 日本に一時的に帰って半年ほど働き、また旅する。それを繰り返す人生もいいかもしれない。しかし、そうは考えていなかった。日本に帰ったら、何をやるのか・・・ この旅が終わるまでに、考えようかと思っていた・・・

 

 翌日、ドナウ川沿いの、とても首都とは思えない程に閑散とした駅前から、ベオグラード最大の繁華街と言われる共和国広場の方へ行ってみた。

 週末ということもあってか、さすがにここには多くの人々が集まっていたが、それでもマクドナルドや、レストラン、ブティックなどが少し並ぶだけで、やはり、これが一国の首都で最大の繁華街かと目を疑う感は、否めない。

 しばらく、その辺りを散歩していると、広場の方から、大歓声と音楽が聞こえてきた。どうやら地元のバンドが無料コンサートを行っているらしいのだ。興味をそそられた僕は、人ごみをかき分け、中に入っていった。


 演奏しているのは、オリジナルかコピーか、よく分からなかったが、最前列で騒いでいる若者は、鋲の付いた皮ジャン、ボンデージ・パンツ、ラバーソウルに、ツンツンに立てたモヒカンなど、格好はパンクスであった。ベオグラードで売っているのだろうか?

 深刻な社会問題を多く抱えるユーゴでパンクなんて、リアルな感じもするが、実際はユーゴでも、バンドをやっているのは、比較的裕福な連中らしい。本当に貧乏な人たちは、バンドをやるどころではないのか。


 その後、駅近くの安食堂で、脂ぎったベトベトのまずいカツレツを食べながら、ひとりでビールを飲んだ。そんなベオグラードの夜は、やはり雨が続いていた。


 ▼注25「コソボ自治区」 参考文献?

 ユーゴスラビア南部のコソボ地方は、現在アルバニア人が、人口の90%以上、セルビア人が7~8%程度を占めている。

 元々この地は、中世セルビア帝国の中心地であり、17世紀、オスマン・トルコの支配化に置かれたため、イスラム教に改宗したアルバニア人が次第に優勢となったが、「コソボは本来、我々の聖地である。」というのが、セルビア人の主張である。

 一方、アルバニア人は、紀元前1000年頃に、バルカン半島に定住したイリュリア人の末裔であり、「自分たちこそが、コソボの先住民である。」と言う。

 一度は、アルバニア人が、共和国並みの自治権を認められた時期もあったが、ミロシェビッチセルビア共和国幹部会議長に就任した1987年頃から、再び厳しくなり、1989年以後、事実上、戒厳令下に置かれた。

 これに対し、アルバニア人は、1991年にコソボ共和国独立を宣言。さらに、1998年頃から、急進派がゲリラ活動を始めると、セルビア側は大規模な掃討作戦を展開して、多数の死傷者を出した。(一方、アルバニア人側も、セルビア人住民を巻き込むテロを繰り返し、双方による民族浄化が行われた。)

 そして、ユーゴスラビアを去った、翌1999年には、ミロシェビッチ大統領率いるセルビア政府が、NATO諸国による多くの警告や制裁を聞き入れず、空爆を始めることになる。