マルセイユ(フランス編2)


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 「国を追われて、フランスへ逃げて来た。妻や子は殺された。」

マルセイユユースホステルで出会ったアルジェリア人の話である。


 そのアルジェリア人は、アルジェで大学の教授をしていたが、イスラム原理主義勢力の台頭とともに、知識人として弾圧され始め、家族も殺され、ヨーロッパへ逃げて来たと言う。

 現在も、GIA(イスラム武装集団)から要注意人物として、殺害リストに挙げられており、身分を隠して逃げていると言う。(▼注31)


 以前、夏休みを利用して、アルジェリアへ行こうとしたことがある。

 だが、この時はサラリーマン。絶対に10日以内に帰って来なければならなかった。同じマグレブ(モロッコチュニジアアルジェリアの3国のこと)のモロッコなら確実にサハラまで行けるはず。

 さらに、よく調べると、アルジェリアは外務省から渡航自粛勧告も出ており、アルジェリア大使館でとても気軽に行けるような治安状況ではないということを知った。

 そのため、結局、モロッコへ行くことになったのだ。


 そのモロッコ旅行中に、2つの事件が起こった。

 パリ発カサブランカ行のエールフランスに乗った数日後、何と、パリ発アルジェ行のエールフランス機が、イスラム原理主義グループによって、ハイジャックされたのだ。当初のアルジェリアへ行く予定であれば、乗っていた便である。

 それを知ったのは、日本に帰ってからであったが、そのハイジャック事件を新聞で知り、背筋がゾッとした。


 そして、もうひとつ大きな事件。

 これは、モロッコでも大々的に報道されていたため、マラケシュ滞在中に知ったのだが、アルジェリアの大衆音楽ライの人気歌手、シェブ・ハスニが、やはりイスラム原理主義グループにより、暗殺されたのだ。(▼注32)

 滞在していたモロッコでも、絶大な人気を誇るライの人気歌手の死に、人々は激しい怒りをあらわにしていた。


 このアルジェリアの状況を克明に表している、ひとつのモノクロ写真集がある。その名も、「INSIDE ALGERIA」(MICHAEL VON GRAFFENRIED)。フランスなどの大きな書店で何度か見かけた。Inside Algeria


 撮影したのは、フランスの報道カメラマンで、内容はこんな感じである。

○つい先程、テロによる無差別殺人が行われた、床中が血に染まっている空港のロビー。

○裸にされて、後ろ向きに並ばされ、今にも射殺されようとしている子供たち。

○おびただしい数の死体。

 目を覆いたくなるような写真ばかりに目立つが、普通に暮らす人々の姿も多く映し出されている。一体どのようにして、この無政府下のアルジェリアで、撮影を行ったのだろうか。

 例えば、バーのカウンターで飲んでいるアルジェリア人たちの写真。カメラと分からないぐらいの小さなカメラをカウンターに置き、こっそりと撮影すると言う。このカメラマン、グラッフェンリートは、このように厳しい報道規制を潜り抜けるために、カメラを隠して、ファインダーを覗くことなく、撮影したらしい。


 ここマルセイユからは、アルジェへの船も出ており、港近くの下町には、かなりの数のアラブ人が在住し、アルジェリア人を中心にアラブ人街を形成している。

 そのせいなのか、マルセイユ駅では、荷物を決して置きっ放しにしないように注意された。最初は意味が分からなかったが、おそらく爆弾テロを警戒しているのだ。

 しかし、現在、シラクサルコジと、益々右傾化するフランスで、移民排除の名の下に、アラブ人は差別され続けている。ユースホステルで出会ったアルジェリア人は、国を追われて逃げて来た、ここフランスでも、激しい弾圧にあっているらしい。


 フランス・サッカーの象徴である、あのジダンアルジェリア人である。例のワールドカップの頭突き事件を出すまでもなく、欧米におけるアラブ人差別は激しい。

 ワールドカップのスローガンが「 Say No to Racism.(人種差別にNO)」というのも皮肉な話である。


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▼注31「アルジェリア」 参考文献?

 アルジェリアは、1962年、フランスから独立し、70年代には植民地から独立した第三世界の国々にあって、最も成功した国の1つとされ、国際政治の舞台では、非同盟諸国のリーダー的役割を担った。

 しかし、80年代半ば、欧米諸国の価格誘導によって石油価格が暴落すると、アルジェリアは経済破綻した。

 それにより起こった、1988年のアルジェ大暴動をきっかけに、イスラム原理主義勢力が台頭する。原理勢力は、貧困者の救済、安価な食料の供給などにより、人々の心を掴んだと言われる。

長い一党独裁が続いた政府の腐敗、経済危機に対する無策振りに怒った国民は、1991年に行われた初めての複数政党制国政選挙で、イスラム原理主義政党であるFIS(イスラム救世戦線)に投票し、FISが大勝した。

 しかし、軍部は、イスラム原理主義政権が誕生して、国際社会から孤立することを恐れ、半ばクーデターに近い形で、選挙を停止。FISに解散命令を出して、非合法化した。

 これにより、地下活動に入ったFISが武装闘争を始め、政府との間で内乱状態に陥り、以後FISと闘争方針の異なる様々なイスラム武装グループが誕生した。中でも、GIA(イスラム武装集団)は、知識人、マスコミ、アーチスト、さらには一般市民に対しても、無差別テロを実施し、今までに10万人以上が犠牲になっていると言う。


▼注32「ライ」 参考文献「ミュージック・マガジン1994年11月号~欧州西風東風」

 ライとは、アルジェリアの港町オラン付近で、アラブの遊牧民ベドウィンの音楽から派生したと言われている。それにロックなど、西洋音楽の影響を受けつつ、大衆化して行った。

 中でも、シェブ・ハレド、シェブ・ハスニなど、シェブ(若い)と名乗る若手のライ歌手は、80年代後半からのワールド・ミュージック・ブームにより、アルジェリア及び同じマグレブのモロッコから、かつての宗主国フランスを経由して、世界中で広く人気を博した。

 その矢先、唯一アルジェリアに残り、シェブ・ハレドに代わってライのトップ歌手として、活動を続けていたシェブ・ハスニが暗殺された。

 シェブ・ハレドを始めとするライの大物歌手の多くが、FISなどイスラム原理主義勢力の台頭による弾圧のために、国外に逃れて活動しており、ハスニにも、パリなどへ逃げるように再三、進言していたにも関わらず、敢えて危険を覚悟で、アルジェリアに残ることを選んでいたのだ。

 ライは基本的にラブソングであり、こういった社会的状況を直接扱っている訳ではないが、イスラム原理主義勢力には、墜落、退廃の音楽と見なされたらしい。


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