バルセロナ(スペイン編3)

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 バルセロナの博物館などでは、3つの言語で説明が書かれてある。1つはスペイン語、もう1つは英語、そしてもう1つはカタルーニャ語である。(▼注33)

 フランコ独裁政権崩壊後のスペインで、カタルーニャ自治が認められたため、カタルーニャ語自治政府公用語となり、教育、文化、出版と、あらゆる分野で、今まで禁じられていたカタルーニャ語が復活した。(最近では、その行き過ぎ、つまりカタルーニャ語を話せない他民族に対する逆差別も起きていると言う。)


 イタリアでもそうだったが、海外では、日本人には理解し難い地方ごとの民族意識があるが、このカタルーニャ地方は、ある意味では、その最たるものと言えるのではないか。その民族意識を最も象徴しているのが、この町のサッカーチーム、FCバルセロナである。

 フランコ時代の反動からか、カタルーニャ人の間では、反マドリッドの感情は根強く、スペインでバルセロナと人気、実力を2分するレアル・マドリッドは、正に最大の敵なのだ。

 そのため、スペイン代表チームにレアル・マドリッドの選手が入っていると、応援しないカタルーニャ人もいると言う。

(だからスペイン代表は、いまひとつ人気がなく、実力的には、世界のトップレベルにあるのは間違いないにも関わらず、国際大会で結果を残せないのは、そのせいだという説もある。)

 カタルーニャ人にとっては、バルセロナこそ代表チームなのかもしれないのだ。


 1月3日、FCバルセロナのゲームを、かの有名なカンプ・ノウ・スタジアムへ観に行った。

 ところが、そのカンプ・ノウが何とガラガラなのだ。対戦相手が下位チームのアラベスだからというのもあるが、どうやらそれだけではない。

 かつて、ヨハン・クライフマラドーナも在籍した、この名門チームに異変が起きていた。昨年、就任した元アヤックス(オランダの名門チーム)の監督であったオランダ人、ファンハールは、大胆な改革を行い、クライファートなど、元アヤックスの選手を、何と6人も移籍させ、チームをほとんどオランダ化させてしまったのだ。(さらに、この後も3人移籍。)

 さらにカタルーニャ人の怒りを買ったのが、バルセロナのユース・チームの出身で、特に人気の高かったデラペニャの放出である。カタルーニャ人であり、スペインの将来を担うと言われていた若手スターの放出に、ついにカタルーニャ人に堪忍袋の緒が切れてしまった。

 そして、カタルーニャ人の象徴であり、誇りであったバルセロナに、みんな見向きもしなくなってしまったのだ。

 「あんなのは、オレたちのバルサバルセロナ)じゃない!」 宿のオヤジも激怒する。


 スタジアムは、ガラガラのまま、ゲームは始まった。

 リバウドフィーゴルイス・エンリケバルセロナの中心選手たちが続々とゴールを決め、楽勝ムードにも関わらず、スタジアムは今ひとつ盛り上がらない。これが、本当に首位を突っ走る名門チームなのだろうか。

 試合内容は、決して悪くないため、僕はある程度満足していたにも関わらず、相変わらずスタジアムは、盛り上がりの欠けたまま、ゲームは進んだ。後半に入り、そんなサポーターたちの雰囲気が、突然一変した。

 ユース・チームの出身で、カタルーニャ人である、期待の若手FWオスカルが登場したのだ。そんなサポーターの期待に答えるかのように、オスカルは立て続けにゴールを決めた。会場では、割れんばかりの大合唱が始まった。

 「オ~スカ~ル!オ~スカ~ル!!・・・・・・・」

 正にそれは、「オレたちはカタルーニャ人だ!バルサはオレたちカタルーニャ人のものだ!」と叫んでいるかのようであった。


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 ▼注33「カタルーニャ」 参考文献?

 バルセロナを中心とする、スペイン北東部の自治州。

 スペインでは、16世紀以来、王制の下で先制支配が行われ、多くの国民が貧困に喘いでいた。やがて民衆の間に反王制的な動きが高まり、独裁政治は崩壊、ハプスブルグ家の王制は廃止されて、共和国となった。これが、スペイン革命である。

 その革命後の共和国政府の後、アサーニャの人民戦線内閣が誕生し、労働者あるいは貧農の利益を代表する政党が中心となり、その政府は運営された。

 しかし、かつてのブルジョア階級の人たちは、これに大きく反発し、フランコ将軍は、この勢力の支持を受ける形で、軍部の一部を率いて、人民戦線政府に対する反乱を起こした。

 このスペイン内戦は、自国のみならず、外国へも影響を与えることになり、共産主義に基づく人民戦線政府側はソ連ファシズムに基づくフランコ側はドイツ、イタリアに後押しされる形となった。そして1939年、内戦は、約100万人の命を奪い、フランコ側の勝利で幕を閉じた。

 またこの内戦中、人民戦線政府支援のために、ヘミングウェイなど、多くの知識人、文化人たちが、国際義勇兵として参加している。

 ヘミングウェイは、この内戦を題材に「誰がために鐘は鳴る」を書き上げた。またジョージ・オーウェルは、この内戦の体験を「カタロニア賛歌」というルポルタージュにまとめ、そして、故郷を無差別爆撃されたピカソは「ゲルニカ」を描いた。

 その結果、権力を握った独裁者フランコは、カタルーニャ語の使用が禁止などの弾圧を行った。アンダルシア、バスクなども、同様に抑圧を受ける。

 しかし、1975年フランコが後継者として育て上げたはずのファン・カルロス国王の下で民主化の時代を迎えると、それまでの抑圧の反動からか、各地で自治運動が展開した。そして、カタルーニャとアンダルシアは自治政府を樹立した。