ラホール(パキスタン編6)


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 ラワールピンディーからバスで6時間。インドの国境に近いパキスタン第2の都市ラホールへやって来た。最も悪名の高い町であり、多くの旅行者は通過してしまうことが多いらしい。それは何故か?


 ラホール駅前に安宿街が広がっているのだが、そこに怪しい噂が絶えないのだ。あくまで噂には過ぎないのだが。

 例えば、鍵をこじ開けられて、部屋に入られ、物を盗まれるのは、まだ序の口。ベッドの下に人が隠れている。タンスの中に人が隠れている。タンスの裏、飾ってある額の裏などに、殿様が逃げるような大きな穴が開いており、人が入ってくる、などなど。そして、睡眠薬を嗅がされて、ゲイの男がやって来る。

 朝、目が覚めて、「おかしいなあ。何か、尻の穴が痛いなあ。」などと気付かなければ、幸せだが、気付いた時は悲惨である。「せめてコンドームを。」と思っても、もう遅い。もう頭を丸めて(既に丸めているが)、出家するしかないかもしれない。


 確かにイスラム圏、中でも特にパキスタンには、ゲイが多い。ソレは、通常は女性に向かうはずの性欲が、「結婚するまで、セックスも出来ないし、手さえ握れない。いやそれどころか、女性と話すことすら出来ない。」という厳格な教えによって抑圧され、倒錯してしまった故の結果らしい。

 髭もじゃで、毛深く、暑苦しいパキスタン人たちがゲイだなんて、思わず笑ってしまいそうだが、その話を聞くと、少し可哀相な気もする。僕だって、そんな国に生まれたら、どうなっていたか分からない。考えたくもないが。

 結局、ラホールで唯一、安全が確保されていると言われているYWCAに泊まることにした。しかし、この宿、構内に女子高も併設されているためか、門の外に衛兵のような者が立っており、確かに安全は確保されてはいるが、確保されているのは、本当に安全だけなのだ。

 トイレは詰まっていて、部屋の方まで異臭がするし、シャワーも壊れているのか、水が出ない。おまけに蚊や変な虫も多く、当然のように暑苦しく、とても女性が管理しているとは思えない宿である。

 宿で落ち着けないので、酷い暑さの中、駅前の公園まで歩いて行き、そこで涼もうと思ったが、和めず、さらに足を伸ばして、バスに乗り、バードシャヒー・モスクへ行ってみた。

 1673年のムガール朝時代に、皇帝の命によって造られたという、その世界最大級を誇るモスクに、僕は裸足になって入り、どこかゆっくりと涼めそうな場所を探していた。円型になっており、アラベスク模様にデザインされている窓のようなところが、座って涼むにはちょうど良いのだが、暇なパキスタン人が多いのか、どこも空いていない。

 外に比べれば、確かにモスクの中はひんやりと涼しいが、それでも石の床は、裸足には熱過ぎる。そのため足の裏から急かされるように、既に中年のパキスタン人がひとりで占領する横に、強引に座り込んだ。

 パキスタン人は、僕の名前や職業などを少し聞いては来たが、このオジさん、パキスタン人には珍しく大人しいタイプなのか、それ以上は特に聞いては来ない。話すのは嫌いではないし、逆に僕の方から話し掛けてみたが、どうも盛り上がらない。オジさんは黙っていたいのかもしれない。しばらく沈黙が続いた。

 いつしか外は雨が降り始めた。シーンと静まり返るモスクに、ただ雨音だけがひっそりと響く。いい雰囲気だ。僕とオジさんは喋らず、目を合わせ、「雨だね。」という合図をした。モスクの向こう側には、やはりこのモスクと同じく、ムガール朝時代に建てられたラホール・フォートが霞んで見えた。ただ黙って、その壮大な城砦を見つめ続けていた。


 僕は歩いていた。ただ歩いていた。雨が降ったせいか、それとも日が暮れたせいだろうか、幾分か涼しくなった雨上がりの道を。

線路沿いの道を通り、駅前の公園に差しかかった。さらに歩き続ける。噂の泥棒宿は、この辺りだろうか。気のせいか、どの宿もいかがわしくも見える。駅前のホテル街を通り過ぎ、バイク屋街が見えた。足取りはますます軽くなってくる。映画館を過ぎ、公園を過ぎる。

 ところが、ガソリン・スタンドを過ぎ、あと少しでYWCAというところまで来て、足は止まってしまった。大きな水溜りが行く手を塞いでいるのだ。同じように、立ち往生しているパキスタン人が数人、集まっている。

 しかし彼らと僕の立ち止まっている理由は、おそらく違う。彼らがそこを越えるのを躊躇しているのは、その水溜りがあまりに深いからだろう。僕が躊躇しているのは、そうではない。その水溜りがあまりに汚いからなのだ。

 先程の雨で下水でも溢れたのか、汚物のような物が混じり合い、茶色く濁った深い水溜りに、足を踏み入れるには、かなりの勇気が要る。どうしたものか。迷ったが、待っていてもどうなるものでもないだろうし、この程度の汚さで、尻込みするようじゃ旅なんか出来ない。今までだって、もっと汚いところを見て来たじゃないか。

 思い切って、サンダル履きの足を、その茶色く濁った水溜りに踏み入れた。ヌルっとした感触、今にも裸足にバイ菌が染み込んできそうだ。息を止めて、足早に駆け抜けた。

 早く宿に戻って、足を洗わなければ。だが、YWCAは相も変わらず、断水しているのだった。


 YWCAには、ここしか泊まるところがないのか、日本人も含め旅行者がかなり集まっていた。みんな、ここラホールから国境を越えて、インドへ行くらしい。さらに暑いパキスタン南部へ下るのは、やはり僕だけのようだ。

旅行者たちは、皆、噂を耳にしているらしく、当然のように駅前の宿が話題となる。そして誰かが言った。

「噂が本当なのか、誰か、勇気のあるやつ、確かめに行こうぜ!」

 とんでもない。僕は絶対に嫌である。