ラワルピンディ~イスラマバード(パキスタン編5)


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 ギルギットで知り合った大学生のW君とともに、夜行バスに乗り込んだ僕は、ラワールピンディーへ向かっていた。KKHを一晩かけて、南下するそのバスは、狭い崖沿いの道をひた走る。

 途中かの有名なナンガー・パルパット(8125m)を横目に見ることが出来ると聞いていたため、ずっと車窓を眺めていたが、今にも崖から崩れ落ちそうに細い道をすれすれに走り、真下に見える目の眩みそうな景色を見ているうちに、トレッキングのあの嫌な記憶が蘇り、思わず目を背けてしまった。


 バスが食事休憩のため、名も分からない村に止まった後、満腹感のためか、すぐに眠ってしまった。それからどのくらい経ったのか。夜中に急に目が覚めた。トイレに行きたくなったのだ。僕はバスを止めてもらうか迷った。

 すると、なぜかバスはすぐに止まった。気持ちが通じたのか、そう思ったが、すぐにそうではないことに気付いた。またもや崖崩れである。もはや恒例と化している崖崩れではあるが、何度経験してもうんざりする。

 そこからローカル・バスを4台も乗り継ぎ、ラワルピンディーに到着した時、ギリギットを出発してから、既に33時間が経っていた。


 僕は、9月上旬に、日本から小包を送ってもらうことになっていたため、翌日、イスラマバード(▼注9)のGPOへ、サダル・バザールから出るスズキ(▼注10)で飛んで行った。

 うだるような暑さにフラフラしながら、数百メートル歩いては日陰に入り、水を飲みながら、もうすぐ受け取るはずの小包に、胸を弾ませた。

 ようやくGPOに辿り着くと、「小包がひとつ来ているが、大きいので別の場所にある。」とのこと。どうやら手紙の方は来ていないようだ。言われた通りに、裏の建物に行ってみると、そこでもなかった。またそこで別の場所に行くように言われ、行ってみる。また違う。

 一体、何度たらい回しにされればいいのか、その暑さからイライラし始めていたが、ようやく4度目に回された裏の倉庫のようなところで、遂に受け取ることが出来た。確かに日本からの小包である。

 長い旅行中にもらえる手紙は、日本に居る時には予想も付かない程、嬉しいものだ。ましてや小包なんて。

 しかし、今回の旅で小包を受け取ることは、その後2度となく、これが最初で最後となった。イランでは、入れてもらったポカリ・スウェットの粉が原因で、税関で引っ掛かり、トルコでは原因不明の未着。アジアでは、荷物の大きさと紛失する可能性は比例するという噂は、本当なのであった。


 喜び勇んで宿へ戻ると、W君が疲れた顔でうなだれている。聞くと彼はようやく口を開いた。

 「参りましたよ。今日、中国大使館にヴィザを取りに行ったんですが、凄い行列なんです。にも関わらず、奴らはペチャクチャ喋りながら、モタモタして、おかし食ったり、全然仕事しないんですよ。だから全然進まなくて。せめて中に入れてくれればいいのに、炎天下の中、何時間も外で待たせやがって。それで閉館間際にようやく、中に入ったんですが、僕の3人前で、「今日は終わり。また明日来てくれ。」だって。あと少しなんですよ。冗談じゃないですよ。中国人、絶対許せねえ。」

 怒る彼を前に、小包を受け取ったことを言いそびれてしまった僕は、ひとり、こっそりと小包を開けてみた。中には、日本の雑誌とスポーツ新聞が入っていた。日本の活字に飢えていた僕は、その雑誌、新聞を、深夜まで読み漁った。

 しかし、もっとも熱心に読んだのは、スポーツ新聞のエロページであったのは言うまでもない。

 

 久しぶりにパキスタン北部の山岳地帯から下りてきた身に襲い掛かったのは、やはりその差すような暑さであった。9月になれば、少しはマシになるのかと思っていたが、甘かった。中国トルファンの悪夢が蘇る。

 さらに旅に出て、1ヶ月以上が過ぎ、旅の生活ペースに慣れて来た反面、少しダラけても来たのだ。どうもやる気が出ない。バザールなどに買い物に行っても、少し歩いては日陰で休んでペットボトルの水を飲み、また少し歩いては座りこんで買ったジュースを飲む。結局何も買わずに、ただ疲労して、宿に戻るだけといった毎日。

 しかし、これからさらに南下し、パキスタンで最も治安が悪いと言われているスィンド州を通り、灼熱のバルチスタン砂漠を越えて、イランへ向かわなければならないのだ。さらに髪もかなり伸びてきて、うっとうしい。気合を入れ直すために、坊主頭にしようと、路上にある床屋に向かった。

 路上の床屋には、あいにく先客がいたので、道端に座り込んで、待つことにした。街行く人を眺めていたり、道路の向こう側にある電気屋で点いていたテレビを、ボーっと眺める。

 そのテレビでは、ドラマのようなものを放送していたが、その番組の途中に流れたCMに、思わず目を奪われた。それは、インドとの間でその帰属問題について対立しているカシミール地方の領土権を主張するCMであった。(▼注11)


 しばらくすると、先客が、テレビに見入る僕のところへやって来て、こう言った。

 「おまたせ。この床屋はグッドだぞ。」 そうか、それは良かった。「グッドな坊主にしてくれ!」、そう言いかけたが、ところで英語で「坊主」とは何と言うのだろうか。分からず、仕方なく、「ベリー・ショート」と床屋のオヤジに言ってみた。するとオヤジは、「ベリー・ショート?」という顔をしたが、すぐに自身満々に切り始めてくれた。

 「坊主」の意味が伝わらないのか、ある程度切ると、オヤジは「これでどうだ!」と聞いて来たが、その度に、「まだまだ、もっと短く!」と繰り返した。 するとオヤジは、「いいのか?」という顔をするが、また切り始める。何度、それを繰り返しただろうか。遂に、「丸坊主」になったのだ。

 思えば、子供の頃から1度も坊主など、したことがない。前々から1度はやってみたいと思っていたので、これがいい機会だったのかもしれない。そう思い、鏡で見てみると、そこに映った自分の顔は、何と坊主の似合わないことか。

 「どうだ。オレの腕前は。」と言わんばかりに肩を叩くオヤジとは対照的に、複雑な気持ちになっていた。やはり止めておけばよかったか。


 僕は、短い頭に直射日光を受け、さらに暑くなりながら、トボトボと宿に戻って行った。



▼注9「イスラマバード

 首都イスラマバードは、ラワールピンディーと隣接するツイン・シティで、1966年にカラチから遷都するために作られた新しい町である。そのため歴史的な見所は少なく、政府機関や高級住宅街が並んでいるだけで、バザールもあるが、全体的には閑散としており、旅行者は大使館など以外に用はない。


▼注10「スズキ」

 日本のスズキの軽トラを改造して、荷台に幌とシートを付け、乗合いバスとして使っているために、そう呼んでいる。

パキスタンでは、ワゴン車がよく走っているのだが、そのクルマの横に変な日本語が書いてある。

 「直射日光に当てないでください。」 「○×幼稚園」 など。さらによく見ると、微妙に漢字を間違えていたり、「でにをは」がおかしかったり、どうも日本人が書いたとは思えない。後で聞いた話によると、日本語が書いてあれば日本車に思われ、高級そうに見える、そういう理由から、パキスタンではクルマに日本語を書くのが流行っているらしい。だから意味などないらしい。


▼注11「カシミール問題」 参考文献「?」

 インドがイギリスの植民地であった時代、カシミールの藩主はヒンズー教徒であった。そのため1947年のインド・パキスタン分離独立の際に、住民の大半がイスラム教徒であったにも関わらず、藩主の強引な決定で、インドへの加入を選択したことで、紛争が起こった。

 その帰属をめぐり、紛争(印パ戦争、またはカシミール戦争)を繰り返す両国に、国連が介入して、停戦ラインが敷かれ、暫定的とは言え、分割領有が決定された。それによると、カシミールの3分の2がインド領土で、残り3分の1がパキスタン領土とされたが、当然のようにパキスタン側は全域の帰属を主張した。

 計3度の紛争を経て、90年代に入ってからも、インドに編入されたジャム・カシミールイスラム教徒たちが、一段とパキスタンへの返還運動を強めたため、問題は再燃し、その後の両国の核実験などに発展していくのだ。