フンザ(パキスタン編3)


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 パスーから、グルミットを経由して、ヒッチハイクで3時間、 カリマバードに到着した僕は、ジープ乗り場となっているゼロポイントから歩いて、まだ観光化されていないアルチット村へ向かっていた。(▼注8)

 ふと後ろに気配を感じて振り向くと、ヒッチハイクの途中で知り合ったアメリカ人の女の子が後ろを付いて来る。聞くと、同じくアルチット村の長期旅行者の溜まり場宿キサール・インへ行くと言うので、一緒に行くことにした。

 ところがこの女の子がとんでもない奴で、少し歩いただけで、すぐに「疲れた!」と言って、座り込むし、「荷物、重いから持って!」などと言うわのわがまま振り。最初は遠慮して、笑っていたが、だんだん腹が立ってきて、思わずこう言ってしまった。

 「ふざけんな!お前の国じゃ、レディーファーストだか何だか知らんけど、自分のことも出来ない奴が、旅なんかするんじゃないよ。」

 そう言いながらも、結局僕は、自分と彼女の両方のバックパックを背負い、何もない山道を上がって行った。

 「ちきしょう!何で、お前ら欧米人の荷物はこんなに重いんだよ!何が入ってるんだ?」

 「ねえ、まだ着かないの?」 彼女は、相変わらずダラダラと歩き、バックパックを2つも背負った僕にさえ、置いていかれようとしている。

 彼女は、ずっとこうして旅しているのだろうか。それとも単に僕がなめられているだけなのだろうか。


 ようやくキサール・インに着き、中庭で休んでいると、既にこの宿に泊まっている日本人の大学生が話し掛けてきた。

 「この宿、出るらしいですよ。」

 「えっ?」

 「NO.12の部屋に幽霊が出るって、情報ノートに書いてあるんですよ。何人も見てるそうなんです。」

 「え~!オレ、隣のNO.11ですよ。やだなあ。」

 「オレなんか、今日ドミ(ドミトリー)に一人だけですよ。オレの部屋に移って下さいよ!」

 「そうだなあ。あのアメリカ人のネエちゃんと一緒の部屋、嫌だし、移ろうかな。」


 しかし何なのだろうか、この宿は。いきなり幽霊とは。夕方、幽霊情報を確かめるべく、情報ノート(よく安宿などに置いてある旅行者同志が情報を交換し合うためのノート。しかし実際はただの思い出ノートと化している場合も多い。)をめくっていた。

 その情報によると、NO.12の部屋に朝方、窓の前で体育座りをしているトレッキング・スタイルの幽霊が出るらしい。それは、おそらくトレッキング中に事故で死んだ男の幽霊ではないかとのことである。

 このあたりは、前述したように、トレッキングのメッカであり、亡くなるトレッカーも多い。近くのウルタル氷河へのトレッキングの途中には、亡くなった日本人登山家のメモリアル・プレートなどもある。僕もパスーのトレッキングで1歩間違えれば、フンザの幽霊になっていたかもしれないのだ。それだけは、嫌である。

 他にも、「夜中、近所の公園でブランコをしている女の子の幽霊が出ます。この幽霊を見ると、下痢になります。」など、なぜ下痢になるのかは分からないが、この辺りには幽霊話には事欠かさない。


 幽霊話で盛り上がっていると、今朝一緒だったアメリカ人の女の子がやって来た。

 「部屋移っちゃったの?幽霊が出るんだってね。キャハハ!私も見てみたいわ。」

 「オレは見たくねえよ。」

 しかし結局、幽霊なんて全く心配する必要など、なかったのだ。なぜなら、それどころではない出来事が、これから待ち受けていたのだ。

 旅行中に少しでも体調が悪くなると、コレラじゃないか、肝炎じゃないかと不安になってくる。ましてやパキスタンの山奥のような場所では、さらにその不安は増大することだろう。その恐れていたことが起こってしまったのだ。

 

 アルチット村に来て数日経ったある夕方、何となく体がだるく、食欲も無かった。本来なら、毎日楽しみであるはずの夕食。(この辺りでは、手に入る食材も非常に少ないため、乏しい夕食しか作れないことも多い。しかしここキサール・インでは、この宿で働く日本人、キミコさんの手助けもあり、毎日その少ない食材で、工夫を凝らした安価でおいしいフンザ・メニューの夕食を提供し、旅行者に人気を得ていたのだ。それでたったの55ルピー(≒165円)である。)

 それを殆ど食べることが出来ず、部屋に戻ると、今度は急に寒気がしてきた。熱を計ってみると、何と39度もある。

 「それは多分、このあたりで最近流行ってる、寄生虫によるものじゃないですか。みんな凄い下痢になるらしいですよ。」 とみんなが言う。

 

 予告通り、突然にその晩から、激しい腹痛と共に猛烈な下痢が始まった。この病気の特徴として、お腹にガスが溜まり、この世の物とは思えないような臭いおならが出るのだ。狭いドミトリーで何度と無く、臭いおならを撒き散らし、大ひんしゅくを買っていたことだろう。

夜が更けるにつけ、益々下痢は酷くなり、数分毎にトイレとベッドを往復しなければならなかった。もはや幽霊など、怖がっている余裕などなかった。この下痢は無敵である。なぜなら、この世で一番怖いと思っていた幽霊をも圧倒してしまう程の猛下痢なのだから。

 結局、外が明るくなるまで、部屋とトイレの往復、さらには、臭いおならを繰り返し、もう出るものも無くなった朝方、ようやく眠りに就いた。

 

 僕は昨日のことを思い出していた。アルチット村からさらに1時間半程、上ったイーグル・ネストへ行った時のことである。フンザの村が一望できる小高い丘の上に立った僕は、ひとりその場にたたずみ、抜けるような青空や、氷河を付けた峰々を背景にひっそりと広がる村々を見つめていた。

 地元の子供たちが寄って来る。まだ、さほど観光地化されていないとは言え、ある程度は旅行者も多くやって来るため、子供たちは多少すれている感は否めないが、それでもネパールなどと比べると、お菓子などを要求して来る訳でもなく、まだまだ素朴な気がする。

 丘の上にどのくらいいたのだろうか。ふと気付くと、まだ昼過ぎであるというのに、急に空が暗くなり始めた。山の天気をなめてはいけないのは、分かっていたはずなのに、またしても、ずさんな装備で山へやって来ていたのだ。

 間もなく、どしゃぶりの雨が降ってきた。子供たちは、雨が降るのが分かっていたのか、既にどこかへ去っていた。慌てた僕は、雨を凌げる場所を探したが、なかなか見つからない。さらにお腹の調子も悪くなり始めた。どうしようか。ずぶ濡れになりながら、丘の上で右往左往していた。

 その時、後ろから呼ぶような声が聞こえた。そこで目が覚めた。宿で働いている日本人のキミコさんであった。心配して、おかゆポカリスエットなどを差し入れに来てくれたのだ。

 このキミコさんは、母親ぐらいの年齢なのだが、このフンザに魅せられ、宿の手伝いをしているらしい。とても親切な方で、旅行者たちの世話役のように、みんなに慕われていた。汗でびっしょりになったTシャツなどを洗濯してもらうなど、この後も何度となくお世話になってしまった。 

 

 さらにこの日も、1日熱は続いた。下痢も昨晩ほどではないが、相変わらずベッドとトイレの往復を余儀なくされる。さらに臭いおならも。どうしても治らない僕は、その晩、仕方なく硬性物質を飲むことにした。

 そのおかげか、3日目には、ようやく熱、下痢、そして臭いおならも徐々に減っていった。これでようやく部屋も臭く無くなるだろう。平和の帰ってきたドミトリーは、再び賑やかな雰囲気に戻ったのであった。


▼注8「フンザ」 参考文献「?」

 カリマバードを中心としたフンザ地方は長寿の里として知られ、周辺の民族とは全く異なるブリシャスキー語を話し、目が青く、金髪の人が多いため、アレキサンダー遠征軍の末裔という伝説もある。

 フンザとは、町の名前ではなく、かつての旧王国の名前である。1947年にインドとパキスタンが分離・独立した後も、フンザ王国として、内政の一切を藩主に任されていたが、1974年に王制が廃止され、パキスタンに属することになった歴史を持っている。

 さらに、フンザが独特の雰囲気を持っている理由として、人々がイスラム教の宗派の1つイスマイリー派を信仰していることにある。この宗派は、イスラム教の2大宗派であるスンニー派シーア派に比べると戒律も緩く、アザーン(1日5回行われる礼拝の呼びかけで、モスクのミナレットから大音響で流れる。)も流れず、お祈りも殆どせず、さらに女性も顔を隠していない。

 またこの一帯は、あの宮崎駿の「風の谷のナウシカ」のモデルになった場所としても有名で、パスーと同様に氷河をつけたウルタル山など7000m級の山々に囲まれ、山の斜面に作られた村に水路の水がゆったりと流れ込み、人々は外界と閉ざされた独自の世界に生きている。観光化されては来ているが、それでも「桃源郷」という表現があながち大げさな気もしない。