ザグレブ/クロアチア(東欧編4)


大きな地図で見る

f:id:matatabido:20070624021308j:image


 ユーゴスラビアからハンガリーへと遠回りしたが、再びブダペストから南下し、クロアチアの首都ザグレブへやって来た。


 日本人にとって、クロアチアと聞いて、一番最初に思い浮かぶのは、あのフランス・ワールドカップであろう。

 ご存知の通り、クロアチアは予選リーグで日本を1対0で破り、その後、決勝トーナメントでは対戦相手に恵まれたこともあるが、初出場ながら、3位に入るという快挙を成し遂げた。

 フランス・ワールドカップが終わり4ヶ月も経っているが、街は、未だに興奮冷めやらぬといった状態で、クロアチア代表選手が一面にプリントされているトラムが走り、ワールドカップで得点王に輝いたスーケル、さらに、キャプテンのボバン(▼注27)のユニホームやグッズも多く売られている。


 しかし、さすがにグッズの売り上げは落ちているようで、ザグレブの中心、共和国広場前にあるサッカーグッズの店では、バーゲン・セール中。

 気になって、中へ入ってみると、クロアチア代表のウインド・ブレーカーを着た店員の女性が、レジで暇そうに立っている。

 スーケルとボバンのブロマイドを買おうとすると、その女性店員が話し掛けてきた。

「日本でも、クロアチアの選手は人気があるの? 日本は思ったより、強いね。」

 お互い下手くそな英語でサッカーの話をした。ボバンのファンだと言う彼女、サッカーグッズの店で働いているだけあって、さすがに詳しい。僕も、知っている限り、クロアチアの選手たちのことを話した。

 彼女は、帰り際に、「また来てね!」と、ボバンのキーホルダーを、タダでくれた。多分、たくさん売れ残っているのだと思うが、嬉しかった。


 僕は、その足で、ある場所へ向かった。ずっと気にもしていなかったのだが、パキスタン丸坊主にした髪が、ただ汚らしく伸びていて、本当に格好悪いのだ。旅行中だし、それでもいいのだが、彼女の前では、ちゃんとしようと思った。とりあえず、床屋に行かなければ。

 しかし、床屋へやって来たのはよいものの、言葉も通じず、どう切ってもらうか、困った。すると、目の前にサッカー・クロアチア代表のポスターが貼ってあるではないか。

 僕は、迷わず、彼女が好きだと言っていたボバンの頭を指差して言った。

「こんな感じにしてくれ!」と。

 床屋のオヤジは、「OK」と得意気に親指を立てたが、しかし、散髪後、どこがボバンなのか、全く分からなかった。彼女なら、何と言うだろうか。


 翌日も、彼女の店へ行ってみたが、定休日なのか、時間が遅かったからなのか、よく分からないが閉まっていた。結局そのまま、彼女と会うことが出来ずに、ザグレブを去ってしまったが、元気にしているのだろうか。

 ボバンのキーホルダーを見るたびに、あの店を思い出すのであった。


f:id:matatabido:20070712010455j:image


▼注27「ボバンとクロアチア代表」 参考文献?

 クロアチア国内で絶大な人気を誇るボバンを、象徴するエピソードがある。

 1990年、既に旧ユーゴスラビア代表で、ストイコビッチらとともに中心選手となっていたボバンは、ディナモ・ザグレブに在籍していた。その年のリーグ戦、ディナモ・ザグレブVSベオグラードレッドスターの試合開始前に、当時まだ、同じ旧ユーゴスラビア国民であったクロアチア人(ディナモ・ザグレブ側)とセルビア人(ベオグラードレッドスター側)のサポーターが乱闘騒ぎを起こしてしまった。

 ところが、これを取り締まっていた警官隊のほとんどが、セルビア人であったために、警官たちが一方的にクロアチア人サポーターに暴行を加え始めた。(この時、内戦直前で、既に両民族の間には分裂の動きがあった。)

 常に、自分はクロアチア人であることを誇りにしていたボバンは、これに怒りを爆発させて、袋だたきに遭っていた少年を助けるため、自らも乱闘に加わり、警官隊相手に大暴れをしてしまったのである。

 この乱闘騒ぎにより、9ヶ月の出場停止処分を受けてしまったボバンだが、すぐにイタリアの名門・ACミランに移籍し、そこでコンスタントに活躍を続けた。しかし、その後ユーゴスラビアは、民族紛争に突入。

 独立したクロアチア代表として、ようやく初の国際舞台を踏むのは、1996年のEURO(ヨーロッパ選手権)であった。